2019年10月01日

源氏物語について その四十四

源氏物語第12帖「須磨」。

ここから舞台は京を出て、
須磨へと移ります。

京からは1日で到着する距離ですが、
その当時の須磨は侘しいところでした。

作者の紫式部がなぜ「須磨」を、
源氏の謹慎先に選んだのでしょう。
それは史実上の先例があったからだそうです。

伊勢物語の主人公として有名な在原業平の、
兄の在原行平が須磨に流されていたときに、
古今和歌集の中に行平の詠んだ歌で、
「わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩たれつつわぶと答えへよ」、
(たまたま私がどうしているかと、
尋ねる人がいたなら、
須磨の浦で藻塩に含ませた、
水が滴り落ちるように、
涙を流しながら侘しい暮らしをしていると答えて)、
という歌があります。
源氏物語が書かれていた当時は、
古今和歌集はとても身近な存在だったため、
読者にしてみれば、
「ああ須磨。侘しいところね」、
とすぐ理解してくれたのでしょう。

このように史実がたびたび物語の中に出てきます。
紫式部はその当時の流行に敏感で、
読者の心をつかみ、
物語の中に引き込む天才なんですね。
次回に続きます。
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2019年09月23日

源氏物語について その四十三

源氏物語第12帖「須磨」。

藤壺の尼宮や花散里の君など、
縁のある人たちとお別れをした源氏ですが、
さすがに今回の事件の相手である、
朧月夜の君にだけは会えないので、
手紙でのお別れをしました。

その後東宮様、
(藤壺の宮と源氏の間の子)のところへも、
挨拶に行きました。
東宮様が藤壺の宮と源氏の間の子ということは、
誰にも知られてはいけないことなので、
もちろん家臣としての挨拶です。
源氏は「いつか都の春の花
(あなた様が即位される姿)を見ることができるでしょうか」
と桜になぞらえて東宮様にお別れを言います。
東宮様は「少しでも会えないと、
僕は寂しいのに遠くに行ってしまったら、
もっと寂しくなっちゃうな」
そうお返事されました。

。東宮様の母の藤壺の尼宮にも、
「思いがけない罪(朱雀帝への謀反)、
のために謹慎することになりましたが、
心当たりのある本当の罪(藤壺の宮と犯した罪)、
があります。自分がどうなっても、
東宮様が無事に即位できるなら本望です」
と挨拶をしました。

源氏は亡くなった父である桐壺院のお墓にもお参りに行きました。

そして最後の夜は紫上と一緒に過ごして、
別れを惜しんで夜が明ける前に須磨へと旅立ちました。
次回に続きます。
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2019年09月20日

源氏物語について その四十二

源氏物語第12帖「須磨」。

紫上に「いつか一緒に住むからね」
と約束をした源氏ですが、
たくさんの親しい人たちにお別れをしたり、
出発の準備で疲れていました。
鏡に写った自分を見て、
痩せたな哀れだなと思い、
こんな歌を詠みました。
「 身はかくて さすらへぬとも 君があたり 
去らぬ鏡の かげははなれじ」
(私は須磨へ行ってしまいますが、
鏡に写った姿をあなたのところに置いていきます)
紫上は、
「別れても 影だにとまる ものならば 
鏡を見ても なぐさめてまし」
(あなたがいなくなっても鏡にだけでも、
姿が残っているならずっと眺めていられるのに)、
と詠んで涙ぐみました。
その優雅で美しい紫上を見て、
源氏は「やっぱり紫上を一番愛している」と思うのです。
(だったら何故にそんなに問題ばかりおこすのよ
紫上が泣いているのはあなたのせいなのよ)、
と私の心の声でした。

源氏はもし自分が戻ってこれなかったらと考えて、
財産などを紫上に託して出発の準備をしました。
自分の家来たちにも待っていてくれる者は、
紫上に仕えるようにと言いました。
次回に続きます。
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2019年07月06日

源氏物語について その四十一

源氏物語第12帖「須磨」。

この当時の須磨の様子は、
現在の立派な街とはかけ離れていて、
うらぶれた漁村だったそうです。

源氏はなによりも、
紫上(成長した若紫の姫君)を、
都に残していくことが気がかりでした。
紫上は実父の兵部卿宮とも対面し、
源氏の妻として、
幸福に暮らしていることも知らせていましたが、
紫上の継母は意地悪で、
紫上が幸福になったことに、
腹を立てていました。
今回の源氏の不幸を知り、
「ほら、ごらん。あの女は大切な、
人と別れる不幸な運命をもって生まれてきたのです。
源氏の君に可愛がられて、
いい気になっていたのも束の間じゃないか」、
と悪口を言っているのです。
紫上の実父も気が小さく、
右大臣側からにらまれるのがこわいので、
源氏とは親しくしていません。
紫上はそんな実父や、
継母が恥ずかしく、
自分の親は育ててくれた源氏しかいないと思っているのです。
その源氏が分かれて遠くにいってしまうのが、
悲しくてなりません。
「どんな苦労でもしますから、
一緒に連れて行ってください」、
と紫上は泣いて頼みました。
源氏も心細くなる、
紫上の身の上が心配で、
連れて行ってしまおうかとも思いましたが、
「罪人が女を連れて行ったとなると、
物笑いの種になってしまいます」、
と言って聞かせました。
そして、[もし私がこの京に戻ることができないときは、
どんなみすぼらしい家だろうと、
あなたを呼び寄せて一緒にくらすからね」、
と約束をして紫上を慰めました。
次回に続きます。
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2019年07月02日

源氏物語について その四十

源氏物語第12帖「須磨」。

なかなかこの帖はすすみません。
というより私が頭の中で、
情景を想像しかみ砕くことが、
困難なのです。
などと言い訳がましくしております。

政治的な圧力に耐えかねた源氏は、
自ら須磨に去ることを決め、
たくさんの人たちに別れを告げました。

花散里もとても悲しみ、
源氏のことを心配しました。
他にも源氏のことを思い、
一人悲しんだ女はたくさんいたのでしょう。

藤壺の尼宮からも、
源氏を心配するお見舞いが、
人目につかないように、
こっそりとありました。

出発する日が近づいてきたので、
源氏は左大臣家にあいさつに行きました。
ここには亡き正妻葵上との息子である、
夕霧がいるのですが、
まだ幼く父親の源氏が遠くに行ってしまうことがわかりません。
亡き正妻葵上の父である左大臣や、
兄で源氏の親友でもある頭中将たちと、
昔話をしながらお別れをしました。
次回に続きます。
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2019年05月01日

気づけば4ヶ月

前回のブログを見たらなんと元旦でした。
この4ヶ月の間にいろいろありました。

これを書くことはためらいましたし、
たくさんのことはまだ書けませんが、
4月13日におばあちゃんが亡くなりました。
私にとっては夫の母なので、
姑になるのですが、
とても大好きなお母さんでした。
まだ心の整理がつかないというか、
現実を受け入れることができずにいます。

私がブログを始める前は、
「おばあちゃんの論語教室」、
というタイトルで、
おばあちゃんがブログを書いていました。
もう少し落ち着いたらたくさんの、
おばあちゃんとの思い出話を書きたいと思います。

ご父兄の皆様からお悔やみの言葉を頂戴し、
ありがとうございました。
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2019年01月01日

明けまして

おめでとうございます。
旧年中は保護者の皆様、
生徒さん方、
塾関係の皆様には、
たいへんお世話になりました。
本年もよろしくお願いいたします。
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2018年12月31日

今年もありがとうございました

2018年もあとわずかとなりました。
本年も保護者の皆様にはたいへんお世話になりました。

生徒さんたちが元気にあいさつをしてくれたり、
楽しそうに笑っているのを聞く度に、
私は皆さんから元気をもらい、
この年末を迎えることができました。

来年もよろしくお願いいたします。
よいお年をお迎えください。

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2018年12月19日

そろそろ冬期講習です

当塾は今年は12月22日、
土曜日から冬期講習が始まります。
年末年始は30日をのぞき、
講習があります。
受験生のみなさん冬休みに入っても、
夜更かしすることなく体に気をつけて、
規則正しい生活を心がけましょう。
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2018年12月13日

源氏物語についてその三十九

源氏物語第12帖「須磨(すま)」。

久々の源氏です。
あまり須磨。明石の帖は好きではないのですが、
この条を飛ばすとこの後が、
つながらなくなってしまうので、
さらぁっと書きます。

この「須磨」から源氏物語は第一部後半に入ります。
これまで登場した主要人物の中で、
源氏の母桐壺の更衣と、
父である桐壺院、
正妻である葵の上、
第4帖の夕顔、
が亡くなっています。

この帖は源氏が26才春から、
27才春までの一年間の話です。

舞台は都から須磨に代わります。
源氏の異母兄が朱雀帝となりました。
朱雀帝は心優しい性格で、
源氏を頼りにしているところもありましたが、
朱雀帝の母弘徽殿太后は、
源氏を憎んでいました。
それというのも弘徽殿太后の妹朧月夜は、
朱雀帝がもっとも愛した女性で、
いずれは女御として入内させる予定だったのに、
源氏と恋愛関係になってしまったため、
女御として入内させることを、
遠慮しなければならなくなったのです。
そのため尚侍として入内しました。
女御と尚侍では身分の差が大きいので、
女御として入内すれば将来は、
中宮・皇后になる可能性は十分ありましたが、
尚侍では絶望的だったのです。
それがもっとも大きな原因で、
弘徽殿太后は源氏をとても憎んでいたのです。

源氏は東宮を帝位につけるため、
謀反を企んでいるということにされ、
官位を取り上げられ、
流罪が決定したという噂がたっていました。
源氏はいまさら無実の罪の言い訳をしても、
聞き入れられることもないのならと、
自ら都を離れることにしたのです。

この時代の政治は律令制度でした。
律とは刑法のことで、
一番重い罰は死刑でした。
ですが、平安時代にはほとんど死刑は行われてなく、
次に重いのが流罪だったそうです。
この時代一度流罪になった者は、
二度と政治の表舞台に立つことができないのです。
そのため源氏は自ら先手を打って、
須磨に去って謹慎したのです。
そうすることでそれ以上は手が出せない、
ということと「反省していますよ」、
という意を示したことになったのでしょう。
次回に続きます。
posted by コポ at 21:40| Comment(0) | 日記